尼崎市立小田北中学校13期生同窓会クラブ

尼崎市立小田北中学校13期生同窓会のブログです。2003の13組(重信学級)の同窓会、2007の還暦同窓会(全校生徒)、2011の卒業50周年同窓会、2017の古希の同窓会を経て、喜寿の同窓会に向けて情報を発信していこうと思っています。みんなの協力・提案を待っています。

カテゴリ: 人生は回り道ん方が楽しい


年が明けて1971年1月だったと思う。Lee Abbey に住んでる学生から、どういう事情でか忘れたけれどBBCテレビのスタジオ見学の招待状をもらった。こりゃ面白いかも!O君と一緒に行きました。Top of the popsという、若者に人気の番組でペトラ・クラークやニール・ダイアモンドが、それぞれ当時の新曲を歌っていて僕ら見学者も一緒になって踊っていた。ニール・ダイアモンドは「クラックリン・ロージー」ペトラ・クラークは僕が知っている「恋のダウンタウン」ではなく、1969年公開の映画「チップス先生さようなら」で歌っていた曲ではないかったかと思う。それからジョージ・ハリソンの「マイ・スィート・ロード」が流れ、えぇー!ジョージ・ハリソンが出るの!と思ったがレコード音楽だけで舞台では女性ダンサーが曲に合わせて踊っていた。この番組は生放送ではなく、youtubeで見てみると1971/1/21となっている。放映日には、多分、O君のカメラでだったと思うが、Lee Abbeyのラウンジのテレビをカメラを構えて写真に撮りました。今見るとほんと懐かしい。
top of the pops 1971
top of the pops 2

 「愛は時を忘れさせ...4」で書きましたサマセット・モームの『剃刀の刃』の本との出会いのことを書きました。昨年の5月ごろはコロナの緊急事態宣言の最中、図書館も本屋さんも閉まっていて、なかなか読めなかった。そんな中、ネットサーフィンしているとYoutubeのブックスタンド(https://www.youtube.com/watch?v=V3OmMAU3FJQ)という番組でロバート・ハリスさんという作家の方が『剃刀の刃』を紹介されていて、最後の方で「マイ・スィート・ロード」が流れてハッ!としたことを思いだしました。番組のエンディングで司会者が60を超えても自分探しがやめられないと、おっしゃっていたことが印象的でした。
 僕は70超えても自分探しがやめられないのです。

学部長とガック

朝日新聞の512()(2012)朝刊阪神版に「リタイア後 憧れの歴史学」という記事が載っていました。日清製粉グループ元社長・村上さん母校・関学大の院に入学したという母校のキャンパスを背景に写真入りで大きく取り上げられていました。「東京での特別顧問として週2回、本社への出勤。授業のある火、水、木曜日に合わせて都内の自宅から西宮上ケ原キャンパスに通い、20代の同級生らとゼミや専門科目の講義を受ける」とある。

 

 年金だけでは生活できずタクシードライバーをしながら大学、大学院と通っている私にはキャンパスを背景に写っている彼のどや顔にジェラシーを感じる記事でありました。

 

 日曜日には、米映画「幸せの教室」という、あまりお金のかけていない映画を見に行ってきました。主人公のラリー(トム・ハンクス)は長年勤めたスーパーを突然解雇になる。その理由が、高卒だからという。奮起した彼は地元の短期大学に通う決心をする。そこで、美人教師と知りあうというラブストーリ、まぁB級映画でしょうかね。単純で、気持ちが楽になる映画でした。私のような人を相手のサービス業の仕事をしていると、厭なことが多くストレスがたまる一方なので、こういう気楽な映画がリラクッスできるので、よく映画館に足を運びます。

 

 そして今日のNHKのニュースを見ているとアメリカの名門大学の一つ、コロンビア大学で、19年間構内の清掃員をしながら授業料の免除制度を利用して勉強を続けた男性が、13日、学士号を取得して卒業し、全米で話題となっているとニュースを流していました。仕事をしながらの大学生活、しかも中高年、でも私より一回り下だけど、共感を覚えました。彼の名前はガッツ・フィリーパイ(52)。ほんとガッツある人です。「フィリーパイさんは旧ユーゴスラビアで生まれ。32歳のとき、戦渦を逃れてアメリカに渡りました。当時、英語が全く話せなかったフィリーパイさんは、コロンビア大学で清掃員の仕事を得たあと、大学が職員に対して設けている授業料免除の制度を利用して英語を勉強し、40歳からは一般教養の授業を受け始めました。

 午前中は授業に出席し、午後は11時まで掃除やゴミ捨ての仕事という生活を19年間続けた結果、このたび古典学の学士号を取得し、13日、卒業しました。アメリカのメディアは、フィリーパイさんの卒業を大きく取り上げ、「働きながら学ぶということに新しい意味を与えた」などと称賛しています。フィリーパイさんは次は修士号を狙いたいとして、このまま清掃員として大学に残り、勉強を続けるということです。」とNHKは伝えています。このガッツ・フィリーパイさんのニュースは土曜日の朝日の記事、日曜日の「幸せの教室」という映画などと比較してはるかに素晴らしい出来事だったとおもいます。「幸せはポケットにない、心の中にある」という彼の言葉にも感動しました。

'The richness is in me, in my heart and in my head, not in my pockets.'

2012514日に他のブログに掲載したものです。今読むと昨日のことのように思い出されます。



どよう楽市2009.03.14web
       (2009/03/14にNHKのラジオ番組に)

 2007
年4月6日、神戸市のポートアイランドホールで入学式があり、家内と一緒に出席しました。このあたりは、まだ40年ぶりの試験に合格した喜びの余韻が残っていたのでしょうね。

会場では新入生の席と保護者の席が別々で、案内人の方から保護者の方はこちらですと言われたけど、奥様は保護者の席へ。僕は新入生ですと言って4700人の新入生の中に。大学院の博士課程の方もいましたが、どうも僕が最年長みたいでした。

タクシードライバーの仕事はいろいろなシフトがあって、僕の場合は朝6時から夜中の12時まで18時間を月13回。ということは月26日出勤と同じです。で、朝6時から午後3時まで月26日勤務の仕事に変えてもらい、3時から少し昼寝をして5時50分から始まる大学へ通っていました。
 4月9日だったと思いますが最初の授業は体育でした。
僕は張り切って阪急六甲から坂道をくねくねと体育館へと歩いていきました。トイレを済ませて出てきたとき、鼻血がぽたぽたと土の上に落ち始め、またトイレの手洗いに戻って鼻の穴にトイレットペーパー詰めたり、また替えたりしてみたが血は止まらず、体育の授業が始まるのでトイレットペーパーを鼻に詰めたまま出席。
 異様な年老いた新入生だと思われたのでしょうね(今となっては笑えますが)。その後も10日か2週間ほど鼻血が止まったり出たりで、いやほんと変な病気にかかっていて、このまま入院ということになったらどうしようかと、仕事を続けながらでしたけど何とか止まるまでの2週間は悪夢でした。ドイツ語の授業中の時も教室とトイレの往復。今思うと疲れとストレスで還暦間近の僕はへとへとだったと思う。入学金のこと、パソコンでの授業登録の煩雑さ、タクシーの勤務シフトのへ変更手続き等々。でも何とか気力で乗り切ったと思う。

それから半年後に2008年度の夜間の経済学部が60年の歴史を経て廃止となることを知り、ダメだったら来年と思っていたので、ほんとに入学出来てよかったと思っています。

僕が生まれた1947年に国立大学で初めての夜間の経済学部が誕生し、そして僕が最後の卒業生となった。不思議な縁ですね!

鼻血も止まり、それから毎朝5時に起きて朝食を済ませ車で会社へ。午後4時半ごろ会社に車を置いて、宝塚駅までと阪急六甲から大学までの往復5~6Kmをウォーキング。夜9時に授業が終わり家にたどり着くのが11時過ぎでした。風呂に入って晩御飯を食べると夜中を過ぎていた(学食で食べることもあったけど)。勉学以外の楽しみは毎日の通学路で坂道から下りてくる大勢の神戸松陰女子学院大生(隣の大学)の若さむんむんのシャワーを浴びることと土曜の夜はぐっすり寝むれることだったと思います。眠たくて眠たくての大学院までの6年間、無事故・無違反のゴールド免許は僕にとっては金メダルです。

あの頃を思い出すと、アトランタ五輪の有森裕子さんではないけれど自分で自分を褒めてやりたいと今でも思っている。何にも代え難い経験です。

よく翌年の2009年に「土曜楽市」というNHKのラジオ番組に、なんかのきっかけで出演した時にMCの残間里恵子さんに、この女子大生のことを話すと「すけべ伊能忠敬!」と言われました。
 *因みにニックネームのニャーロは米映画「タクシー・ドライバー」のロバート・デニーロにちなんで、猫が好きなタクシードライバーなのでニャーロに。


神戸大学夜間
 11月3日は母親の命日でしたが、午前中は仕事の関係でどうしても出られないが、午後から出席すると兄に伝えてと奥様に言って神大の試験に臨みました。(奥様にも内緒!)

 試験会場では、なんか頭の良さそうな中年男子や賢そうな20代、30代とほとんどが男性でした。最初に辞書持ち込み可の英語の試験があり、続いて与えられたテーマについての論文を書く試験でした。時間がどんどん過ぎて行く。試験監督の方が会場内を見回っている。
 僕の前に何だかじっと立って僕の答案用紙を見ている。不正なんかしてないよ!と思いながら自分の試験用紙を何か変?と見てみると、なんと!自分の名前と受験番号を書き忘れているではないか!
慌てて書いて提出。いやはや!大げさかもしれないが命拾いしました。無記名のまま提出していたら間違いなく不合格だったと思う。これも40年のブランクのせいか?

試験は出来たとは言いづらいが、17日までなんとか風前の灯じゃないが一縷の望みを抱き続けることが出来る。そして知らんふりして法事に出席。

 合格発表の日は会場まで行って不合格だった場合、落胆して家には帰れない気がして自宅のパソコンで合格発表を見ることに。発表に時間が来ても怖くてなかなか神大経済学部にアクセスできず躊躇していたのを今でも覚えている。

そしてしんどくなって恐る恐るアクセス。 手元にある受験番号とパソコンの画面をゆっくりと見る。1,2,3,4,5,6、7・・・あった!僕の番号が、あったんです!僕の番号が!    

神戸大学経済学部夜間主コース。現役の夜間主コースの学生を入れると一学年50人ほど。来年(2007年)4月から阪急六甲駅から毎日坂道を登って大学へ通える!そう思うと、入学まで4カ月以上ある。嬉しさのあまり気が狂うのではないかと本気で心配していました。
 思い返せば、合格できたのもあの試験監督の方(女性)が僕のそばに立って、答案用紙をじっと見てくれたお陰だと思っています。入学後、教務室で時々彼女を見かけましたが、なんだか説明しにくくて、お礼の言葉もかけていないが、あれから十数年経っているけど、思い出す度に感謝しています。

inoutadataka


 今日11月17日は、ちょっと大袈裟かもしれないけど僕の人生がガラッと変わった日です。

僕は50歳の時にリストラにあいハローワークの訓練校でパソコンの基礎程度を習いました。後にこれが大いに役に立つのですが、高卒で持っている資格といえば自動車免許だけだったので、雇用保険が切れた後はタクシードライバーとして働いておりました。

 タクシードライバーの仕事をしているとストレスが溜まりたばこを吸ったり長時間座ったままの勤務なので休みの日には歩いて往復1時間くらいの図書館に通っていました。歩くと次の日の勤務が、午前中だけだけど身体が楽なんです。歩くことは身体にいいんだということを実感していました。たばこも病院へ通われるお客様が多いので吸わないように我慢していたら、いつの間にか止めること出来ました。

 そんなある日、図書館で井上ひさしの伊能忠敬についてのエッセイ集を借りて読んでみました。僕が58歳の時です。そのころの僕の小遣いは3万円。半分はたばこ代に消えていました。そのエッセイ集の中に「一身にして二生を経る」という章があって、商人として成功した忠敬は50歳から第二の人生を歩まれたということです。僕の娘たちは大学を卒業し社会人となっている。今度は自分のことを考えるゆとりが出来たんだと思う。それまでにたばこも止めて半年以上たつし、これもなんか自信みたいなものになったと思います。

 よし!僕も第二の人生にチャレンジしてみよう、若いころ予備校まで通って挫折した大学へもう一度挑戦してみようと思いようになりました。もちろんタクシードライバーをしながらです。自宅から働きながら通える国公立の夜間部のある大学は神戸大学経済学部と大阪市立大学経済学部で、あとは私立大学が何か所かありましたが授業料が高く、神戸大学か大阪市大に絞って資料を集めました。両校とも夜間部は昼間部の半額。年間26万円だったと思います。たばこを止めたのでなんとか僕の小遣いで捻出できそう。神戸大学は勤務先のタクシー会社から1時間弱、大阪市大は1時間半。神大は六甲山の麓、大阪市内にある市大は駅からすぐのところにあって、第二の人生を4000万歩も歩いた伊能忠敬に憧れる僕には、駅から上りのある坂道を歩いて25~30分かかる神大にぜひとも入学したいと思っていました。特に六甲台からの夜景が素晴らしいのです!僕の干支であるイノシシがうろついてはいるが。

 両校とも11月に入学試験がありました。神大は社会人枠10人で33人が受験。先に113日(2006年)に神大、18日に市大の試験があり1117日が神大の合格発表です。  to be continue..

 P.S. ずいぶん前に書いた文書を書き加えました。本当は17日にアップしたかったが、もたもたして2日も遅れました。



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