10 rue du jourdain
 書くことが沢山あるのに、日々の多忙さにかまけて2か月も更新していなかった。50年前のちょうど今頃、大阪万博が終わって海外放浪の旅に出る準備で、僕は忙しい日々を送っていたと思う。
 さて、前回はモスクワまで旅程を書きました。モスクワからはヘルシンキ・コースとウィーン・コースとに分かれていて僕はウィーン・コース。ショパン号というなんとも楽しくなる列車に乗って、まる一日以上はかかったと思うがウィーンに向かう。途中、ワルシャワで停車したが、ワルシャワ市内に出かけたかどうか記憶にない。ただ、乗車中度々、熱い紅茶を機関士のおっちゃんが乗客にサービスしてくれる。これ無料かと思ったが、そりゃないよね!ウィーンで下車するとき結構な金額を支払った記憶がある。
 ウィーン到着後、ユースホステルに宿をとり、何人かの日本からの若者と連れ立って市内観光へ。シュテファン寺院とかシェーンブルン宮殿などを見て回った。
 ウィーンからパリへ。この時は4~5人の同行者がいた。1970年ごろのスーツケースはキャスターが付いて無く、馬鹿みたいに荷物を詰め込んだスーツケースの重いこと。僕が難儀しているところを見かねてモンペリエへ行くという画家志望の青年に助けられたり、神戸からのケーキ職人の青年に助けられたりしていたが、パリに着くと一人になり、取り合えず重いスーツケースを抱えながらパリ郊外にあるユースホステルに向かうが、何故か閉まっていて市内に戻る。安ホテルを探すも片言の英語では通じず、特にフランス人は英語が分かっていても話さない人たちだから大いに困る。何しろメトロの入口(Entree)も出口(Sortie)も分からない僕は、その重いスーツケースを抱えて右往左往していて、へとへとになっていた。若い人に何とか教えてもらって安宿に一泊する。翌日はアリアンス・フランセーズのパリ校に行くもメトロが縦横に入り組んでいて、なかなか学校にたどり着けない。やっと着いてフランス語の授業予定とか聞いたが、部屋も見つかりそうにもなく、これじゃバイトも出来ないだろうと。もう当初のパリでのフランス語の勉強はあきらめてロンドンへ行くことに変更する。
 上はgoogleのストリートビューの写真です。万博で知り合ったフランス人が書いてくれた住所をgoogle earthで調べると、ここが10Rue Du Joudain Paris XXだった。1970年代にこんな便利なものがあれば彼に助けを求められたのにと残念に思う。彼と彼女、今はどうしているだろうか?50年は長い。